朝は、猫の「もう起きてよ!」の声から始まる。
時計を見ると、まだ5時前。
眠い目をこすりながら、猫にごはんをあげ、お湯を沸かしながら簡単に床を拭く。
白湯の準備が整うころには、ようやく一日のはじまりに気持ちが追いついてくる。
昔は白湯なんて、まずくて飲めなかった。
けれど今では、朝いちばんに飲むのは白湯がちょうどいい。
カップを両手で包みこみながら、静かにお祈りを始める。
わたしが使っているのは、SITHホ・オポノポノという
ひとりで完結する祈りのメソッド。
すべてを“クリーニング”するというこの方法は、
不安が強く、やや自閉気味な自分を抱えて生きるわたしにとって、
朝一番の「心の防備服」のようなものだ。
それから庭に出る。まだ眠い。ローズマリーを指先でつぶし、その香りにふっと深呼吸する。
それは、誰に見せるでもない、わたしだけの小さな儀式。
けれどその静かな繰り返しの中で、
わたしは確かに目を覚まし、この身体と心を“今日”に呼び戻している。
暮らしのなかに、魔法はある。
それは気のせいでも、想像でもなく、
もっと古くて、静かで、確かな何かだと思う。
ファデットという名の光
ジョルジュ・サンドの『La Petite Fadette(ラ・プティット・ファデット)』。日本語訳では『愛の妖精』という題名になっています。
これは、19世紀のフランスの田舎を舞台にした物語です。裕福な家の双子の兄弟のひとりが、貧しく孤独に暮らす“魔女の子”と呼ばれる少女ファデットと出会い、次第に心を通わせていくという筋立て。
偏見や恐れの中にいた少女が、誠実さと内面の美しさによって本当の輝きを放ち、まわりの人々の心を変えていく——そんな静かな変容の物語、そしてもちろん、可愛くて甘い物語です。
森の娘ファデットは、村の人々から“魔女の子”と呼ばれ、
忌み嫌われながらも、強く、静かに生きていた。
でも、ひそかに好きな男の子のことばがきっかけになって、ファデットは変わっていく。
持っている少しの服に丁寧にアイロンをかけ、
髪をとき、きちんと身だしなみを整えるようになる。
それだけで、“森の子”は物語の光をまといはじめる。ここらへんの描写がとても好き。
あの瞬間、ファデットは「変わった」のではなく、
もともと持っていた光を、外に向けて表現することを選んだのだと思います。
テスラの母 ― 名もなき創造者
もうひとりの女性の姿が、ふと重なります。
それは、天才発明家ニコラ・テスラの母――クロアチア出身のジョルジナ(またはジョルジュカ)。
※ニコラ・テスラは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した天才発明家で、 現代の電気技術の礎を築いた人物です。特に「エネルギーを目に見えない形で動かす」ことに天才的なひらめきを持ち、交流電流(AC)の発明や無線通信、モーター、テスラコイルなど、数多くの革新的技術を生み出しました。現代では、彼のアイデアは「コードを書くように世界を設計する」ものとしても再評価され、ソフトウェアやアルゴリズムの概念とも重ねて語られることがあります。
ジョルジナは、正式な教育を受けていませんでした。 けれど、家族の中でも特に器用で賢く、あらゆる道具を直感で使いこなす人だったといいます。
彼女は自作の織機を作り、家事道具の改良をくり返し、日用品をより便利にするアイデアを形にしていた。 テスラは彼女のことを「記憶の中で最も偉大な発明家」とまで言っていたのです。
その発明は、知識からではなく、「感覚と記憶」から生まれていました。 「こうしたら、こうなるはず」という直感の設計図。 それは、何代も前の女性たちが伝えてきた、暮らしの智慧と感覚の継承—— まさに、“身体で受け継がれたコード”だったのかもしれません。
テスラはこんなふうにも語っています:
「母が台所で祈るとき、 それはまるで機械を組み立てているようだった。」
祈りの声、織物の音、火を扱う手—— それらすべてが、宇宙の秩序と対話しているように見えたのでしょう。
彼が“コードを書く人”になったのは、 母が“言葉以前のコード”を日常の中で生きていたから。
彼女は、家にありふれた道具から“未来の原型”を作っていた。
そしてそれを見て育ったテスラの技術は、ただの科学ではなく、直感的な詩のようだったのです。
もうひとりの系譜 ― 台所のマリアさま
もうひとつ、わたしの好きな物語を思い出します。
ルーマー・ゴッデンの『台所のマリアさま』に登場する
ウクライナ出身の女性マルタもまた、
静かに、手を動かしながら祈りを続けていた存在でした。
彼女にとっての“マリア像”は、台所に灯る心の居場所。
誰かに見せるためではなく、
暮らしの中にある祈りの実践。
ファデット、テスラの母、マルタ。
この三人の女性には、共通する何かがあると感じるのです。
それは、
目に見えないものを信じ、暮らしの中でそれを育ててきた力。
わたし自身の魔法として
わたしも、そうありたいと思っています。
誰にも気づかれないような身だしなみを整える朝。
カードを引くとき。
朝食のために紅茶をいれる時間。
そんな一瞬にふと目覚める、
小さな“妖精”のような感覚。
その感覚を大切にすることで、
わたしは今も、あの系譜の中にいるのかもしれません。
目に見えない何かを手渡され、
そしてまた、手渡していく人になる。
おわりに― 魔法のような日常の系譜
魔法はいつも、台所の手のなかに。
それが、ファデットから、テスラの母へ。
そして、わたしたちの暮らしへとつながる
“静かな祈りの系譜”なのだと、今は感じています。
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