暦が教えてくれたこと ― 占いとは何だろう

オラクルカードメッセージ

少し前に、「少し、書く時間を変えてみます」という記事を書きました。

二十四節気に合わせて続けてきたカードリーディングをいったんお休みして、もう少し自分の中で考える時間を持ちたい。

そう書いたのですが、今日は、そのときから私が何を考えていたのか、少しお話ししてみようと思います。

占いを学ぶということ

占い師になると決めてから、とにかく勉強することがたくさんあります。

鑑定はオラクルカードから始まりましたが、もっと深く知りたくなって、タロットを学ぶようになりました。

タロットについてオタク的に調べていた頃は、聖書まで読みました。

西洋の宗教や思想に触れる中で、特に一神教の考え方に慣れるのは大変でした。

その揺るぎない意志の強さには、少々辟易しながらも、どこか憧れるところがありました。

また、タロットを学ぶ中では、占いに向き合う姿勢についても、ずいぶん考えさせられました。

占いには、昔からさまざまな戒めがあります。

私自身、未来を「当ててやろう」とすることや、不思議な力を自分のために利用しようとすることには、強い警戒心を持っています。

目に見えないものを、自分の思いどおりに操ろうとする。

それは、私が占いに求めていることとは違うのです。

そんなこともあって、自分の感性に合ったカードの使い方や解釈を見つけるまでには、時間がかかりました。

その頃、西洋占星術や宗教的な象徴について調べるときには、AIとの対話も大いに役立ちました。

そして、数年前からは手相も学びました。

手相には西洋式と東洋式の見方があり、同じ手のひらを見ても、解釈の仕方が異なります。

私が習ったのは西洋式です。(多分ほとんどの手相占いは西洋式です。)

私にとって手相は、その人の現在の姿を、とても率直に映し出してくれるものです。

行動の仕方や感情の傾向、それまでの生き方。そして、このまま進んだ場合に考えられる未来。

そうしたものが手のひらの線や形に表れているように感じられることに、何度も驚かされました。

ちなみに、手相は変化します。

そして今、私の学びの中心にあるのは算命学です。

カードを扱うのであれば、西洋占星術を学ぶほうが、一貫性があったのかもしれません。

では、なぜ算命学なのか。

その理由を説明し始めると長くなるので、今日はやめておきます。

ただ、算命学は、ここ数年熱心に学んできた西洋の占術とは、世界の捉え方がずいぶん違います。

学べば学ぶほど、興味は鑑定の技術そのものよりも、その奥にある思想へと向かうようになりました。

人間とは何なのか。

時間とは何なのか。

そして、占いとは何をするものなのか。

そんなことを考えるようになったのです。

言葉が考え方をつくるなら

先日、佐藤優さんのインタビューを聞いていて、興味深い話に出会いました。

言葉は、単に自分の考えを表現する道具ではなく、言葉や文法そのものが、人間の考え方を形づくるというお話です。

それを聴いたとき、ふと思いました。

暦も、同じなのではないだろうか。

私たちは普段、暦を日付を知るための道具として使っています。

今日は何月何日で、何曜日なのか。

次の予定はいつで、締切まであと何日あるのか。

けれども、暦には、時間をどのように捉えるかという考え方そのものが含まれています。

算命学では、十干十二支や陰陽五行、季節の移り変わりを通して、時間と自然を理解しようとします。

春には春の、冬には冬の働きがある。

時間は、ただ同じ速さで過ぎていく数字ではなく、それぞれ異なる性質を持つものとして捉えられています。

そして、その自然の変化の中に、人間もまた存在している。

算命学を深く理解するには、まず、こうした暦の考え方を理解しなければなりません。

暦は単に時間を数えるものではなく、世界をどのように見るかを教える、一つの言語のようなものなのかもしれない。

最近は、そんなふうに感じています。

人間には計り知れないもの

算命学を学んでいて、特に興味深いのが「気」という考え方です。

『算命学の超脳思考』という本には、この世には人間の力では計り知れない何かが存在し、それを「気」と名づけた、という趣旨の説明がありました。

私は、この考え方がとても印象に残っています。

人間には計り知れない何かがある。

けれども、人間はそれを理解しようとする。

そのために名前を与え、自然を観察し、さまざまな考え方を積み重ねてきた。

陰陽五行や十干十二支も、そうした世界の捉え方の中で育まれてきたものなのでしょう。

もちろん、名前を与えたからといって、その正体がすべて分かったわけではありません。

それでも、目に見えるものだけでは捉えきれない世界を、何とか理解しようとしてきた人間の営みには、興味を引かれます。

そして、その世界観を土台として、人間の人生を読み解こうとするのが算命学なのだと、私は今、学んでいるところです。

自分のお話を生きるということ

以前、このブログに『碧の館の小さな哲学 ― 望む力の規則』という記事を書きました。

ミヒャエル・エンデの『魔法の学校』に登場する「望む力の規則」について書いたものです。

私はこの物語が好きで、今でも碧の館の大切な哲学だと思っています。

人にはそれぞれ、自分自身のお話がある。

そして、自分の本当の望みを知り、そのお話にふさわしく生きることが大切なのだと、私は受け取っています。

本当の望みとは、単に欲しいものや、頭で考えた理想とは違うのかもしれません。

自分の奥深くに、まだ気づいていない何かがある。

タロットやオラクルカードは、それを見つけるための道具にもなる。

私は長い間、そう考えてきました。

ところが、算命学を学び始めると、少し違う角度から人生を見るようになりました。

算命学では、人間を自然の一部として捉え、一人ひとりに生まれながらの宿命があると考えます。

人間が自然を自分の望みどおりに動かすのではなく、人間もまた自然の一部として、自分に与えられたものを生きる。

ここが大切なのだと私は思います。

そして、私が特に興味深かったのは、もし苦労する宿命なら「苦労はちゃんと消化しなければならない」というところです。

普通、占いに期待されるのは、苦労を避ける方法だったり、幸運を引き寄せる方法だったりします。

でも、算命学の考え方では、苦労そのものが必ずしも悪いわけではない。

その人の宿命に必要な経験なら、ただ避けようとするのではなく、きちんと経験して自分の人生の一部にしていく。

いい人生とは、苦労のない人生ではなく、自分に与えられた人生を生ききること。

今の私は、そのように理解しています。

ただし、これは苦しみに耐えなければならないという意味ではありません。

昔、岡本太郎の言葉に出会ったことがあります。

降りかかる災いを、まるで恋人を抱き入れるように受け入れる。それが人間の高貴さであり、逃げずに晴れ晴れと立ち向かうのだ、という言葉でした。

私はこの言葉が好きなのですが、こういうことを大切に思う人ほど、案外、怖がりなのかもしれません。

少なくとも私はそうです(笑)。

できることなら苦労は避けたいし、私のところへ鑑定に来てくださる方にも、つらい思いはしてほしくありません。

けれども、そこには一つ、忘れてはいけない境界線があると思っています。

その人の人生は、その人のものだということです。

私が苦労だと思う経験も、その人の長い人生の中でどのような意味を持つのか、私には分かりません。

もちろん、苦しみを美化したり、理不尽なことを我慢するよう勧めたりするつもりはありません。危険から離れることも、自分の人生を生きるための大切な選択です。

ただ、占い師である私が、その人の人生に必要なものと不要なものを、勝手に決めてしまってはいけない。

その人が自分自身の人生を生きていくために、私は何ができるのだろう。

算命学を学びながら、そんなことも考えるようになりました。

もう一つ、算命学で印象に残っている考え方があります。

「人は生まれてきただけで役目がある」

この考え方は、なかなか深いものがあります。

何かを成し遂げたから価値があるのでも、社会的に成功したから存在意義が生まれるのでもない。

生まれた時点で、その人は自然の営みの中に位置づけられている。

その位置を知るために宿命を読み解く、ということが現時点での私の理解です。

こうして考えてみると、算命学は、どうすれば自分の望みをかなえられるかという問いとは、少し違うところから人生を見ているように感じます。

ここで、私はエンデの『魔法の学校』との関係が気になったのです。

エンデの「自分のお話を生きる」という考え方と、算命学の「自分の宿命を生きる」という考え方。

一見、とてもよく似ている。

でも、まったく同じではない。

エンデの場合は、自分の内側にある本当の望みを発見することが中心にある。

一方、算命学では、自分の望みよりも先に、自然から与えられた宿命がある。

ここには、実はかなり大きな思想の違いがあると思います。

だいぶ前ですが、最初にこの考え方に触れたとき、私は少し反発しました。

それで、算命学ではなく、カードを選んだのです。

自分の人生が生まれたときから決まっているなんて、なんだかつまらない。

自分の人生は、自分で選んでいきたい。

そう思ったのです。

けれども、勉強を続けるうちに、少しずつ見方が変わってきました。

私たちは、生まれる時代も、親も、家系も、自分では選んでいません。

それでも、そうした条件の中で生きています。

そして、自分の望みだけでなく、周囲の人々の人生とも関わりながら生きている。

そう考えると、人間を自然の一部として捉える算命学の考え方は、実際の人間の姿に近いのかもしれないと思うようになりました。

ただ、そうなると、新しい疑問が生まれます。

自分の本当の望みと、生まれながらに与えられた宿命は、どのような関係にあるのでしょう。

今の私には、まだ答えがありません。

人間万事塞翁が馬

算命学を学ぶ中で、大切にしている言葉があります。

「人間万事塞翁が馬」。

幸運だと思った出来事が、のちに不運につながることもある。

不運だと思った出来事が、思いがけない幸運をもたらすこともある。

だから、目の前の出来事だけで、人生の幸不幸を判断することはできない。

私は、この考え方に強く惹かれています。

人間の人生は、一人だけで完結するものではありません。

親には親の人生があり、子どもには子どもの人生がある。

自分の望みがかなうことが、必ずしも周囲の人にとっての幸せになるとは限りません。

そして、親から子へ、さらにその先へと続いていく家系の流れもあります。

今起きていることが、長い時間の中でどんな意味を持つのか。

私たちは、その全体像を簡単には理解できないのでしょう。

だからこそ、目の前の出来事を、すぐに良いこと、悪いことと決めつけない。

それは、何もしないということでも、苦しみを我慢するということでもありません。

ただ、自分に見えているものだけが、すべてではないと知っておくこと。

私は、占いを学ぶうえで、この姿勢を大切にしたいと思うようになりました。

もう一度、占いとは何だろう

こうして考えていると、以前から親しんできたハワイのSITHホ・オポノポノのことも思い出します。

記憶をクリーニングし、自分の考えだけで物事をコントロールしようとするのではなく、神聖なる存在からのインスピレーションを受け取って生きる。

算命学とは異なる思想ですが、人間の意識では捉えきれないものがある、というところに、どこか通じるものを感じます。

エンデの「本当の望み」。

算命学の「宿命」。

ホ・オポノポノの「インスピレーション」。

これらは同じものではありません。

けれども、どれも私に、人間は自分が意識していることだけで生きているのではないのかもしれない、と考えさせます。

そして、もう一度、問いが生まれます。

占いとは、何をするものなのだろう。

未来を知るためのものなのか。

望みをかなえるためのものなのか。

それとも、自分自身と、自分を取り巻く世界を理解するためのものなのか。

今はまだ、答えを出そうとは思っていません。

むしろ、学べば学ぶほど、簡単には答えられなくなってきました。

また、季節の中でカードを引いてみたい

そんなことを考えているうちに、二十四節気に合わせてカードを引いていた時間が、少し懐かしくなってきました。

季節の移り変わりを感じながら、タロットやオラクルカードの絵を眺め、そこから何が見えてくるのかを考える……というより、単にどんなカードが出てくるのかが楽しみなんです。

だから、また二十四節気に合わせて、カードを引いてみようと思っています。

ただし、膨大な量の算命学の勉強があるので(笑)、以前のように前半と後半に分けるのではなく、一つの節気に一度くらい、ゆっくりと。内容も短いかもしれません。

決まった日に何かを書かなければならない、ということにはしないつもりです。というか、多分できません……。

季節を感じ、カードを眺め、何か心に残るものがあったら、それを言葉にする。

そんな時間を、また楽しめたらいいなと思います。

占いについて考えることと、カードを読むこと。

その二つは、きっと別々のことではないのでしょう。

今までと同じカードの中に、今までとは違う何かを見つけることがあるかもしれません。

まだまだ学びの途中ですが、これからも、そんな発見を大切にしていきたいと思います。

葉山 碧の館

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